人生は時間。だから、何に使っているかは分かっていたい

エッセイ

「時間があるはずなのに、時間がない」そんな風にずっと思っていた。

私はドラマやテレビが好きで、小中学生の頃は平日の夜も休日も何かしらみていた気がする。
大学時代や社会人になってからも、通勤中電車の中でアニメをみたり、歩いている時も何度も見たドラマを
音で聴いているほどだった。

そんな状況を言うと、「ドラマ好き」「テレビ好き」「アニメ好き」と思われるだろうが、それは違った。

私の好きと、他の人の「好き」と違うのだと、大学生の時友達に言われて気づいた。

「好き」なものに他の人は、ワクワクした気持ちや感情の高ぶりを感じるようだ。
私の場合は、そういった気持ちになるわけではない。
もっと言えば同じ演出家や脚本家の他の作品を見ようとは思わないし、
新しいものをどんどん見ていく、開拓していくというよりは、今まで見てきたものを見返すことが多い。
ただ、1日10時間とか見れるくらいには時間をずっと使うことができる。
それは世間一般に言う「好き」ではないらしい。

じゃあ、私は何にこんなに時間を使っているのか?
趣味を楽しんでいるのではないならば、私は何をしているのだろうか。

なんとなく感覚的にはスマホを使っている時に似ている。
スマホは、もっというとSNSは人の注意を惹きつけ続ける技術が詰まっている。
Facebookのマークザッカーバーグ、インスタグラムのケビン・シストロムとマイク・クリーガー、Twitterのエヴァン・ウィリアムズ、ジャック・ドーシー、ビズ・ストーン、ノア・グラス。私達よりも”優秀”な人たちが作ったアルゴリズム。これに抗うにはなかなかの胆力が必要だと思う。

気づいたらスマホを使い始めて2時間経っている、でも自分が何をしていたか覚えていないし、
特にもの凄く楽しい気持ちになった覚えはない。もちろん何も生産していないし、何も手元に残っていないなんてことはないか。私はザラだ。

これは私の感覚だが、多分、私はスマホやドラマを見ている時、脳を止めている
そのためにスマホやドラマ、アニメを見ていると言っても過言ではない。
感じたくない感情、受け入れ難い現実。そういうものをまともに受け付けないために、脳を止める。
思考停止が心地良くて、そこに留まっていたいのだ。

ある意味それは、「感じたくない」「向き合いたくない」という自分の感情をドードーするため、
飼い慣らすため、抑えるためにしていることで、自分の感情に振り回されているとも言えるだろう。

そうやって人生の大切な時間を、自分の気分や感情に対処するために使うのは、正直もったいない。

でも同時に、その時間が今の自分にとって必要なものであることは間違いない。

なぜなら私たちの行動は自分で全て選んでいるからだ。
私たちは拘束されていないし、それをしないと殺すと脅されているわけでもない。
全ての行動は自分がしたくてしていることなのだ。

だから私は、この自分の感情に振り回される時間を人生から無理矢理排除しようとは思わないし、
しなくていいと思う。

ただ、自分が今何をしているのか、何に時間を使っているのかは、自覚はしていたいなと思っている。

人生は時間だからだ。

ドラマやSNSを楽しんでいるわけではなく、向き合いたくない現実からの箸休めをしていることは受け止めるべきだと思う。
もしそれが出来れば、自分の時間の使い方に納得できるからだ。

もっといえば、この「自分の時間の使い方に納得していること」これこそが、過ごした時間そのものである人生を味わって生きる上で、1番と言っていいほど重要なことだからだ。

「今は自分の感情に対処している」と自覚していれば、そんな時間もしっかりと自分の人生の一部になるはずだ。

もし、今の時間の使い方に納得できないならば、向き合いたくない現実に向き合い、
感じたくない感情を消化するのも、一つの人生の時間の使い方だ。
そうすれば無理なく、SNSの創始者に勝つことができるだろう。

その時始めて、「暇なのに、時間がない」ではなく、ただ「時間がない」と感じるだろう。

人生の時間の使い方に、善悪などない。生産的なことをいつもしていなければならないなんて思わない。
楽しく、嬉しい時間が沢山あると素敵だと私は思う。
私たちはどこまでも自由なのだから。

 

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